お好み焼き住宅論
家成最近、dot architectsが目指す建築は、お好み焼きなんじゃないかと気づきまして、「お好み焼きの5箇条」を考えたんです。
- 1.素材の入手が容易であること
市場やスーパーで手軽に手に入る食材を使う - 2.つくり方が簡単であること
誰もがマスターしやすいつくり方 - 3.道具の入手が容易であること
まな板・包丁・コテ・鉄板など、
シンプルで価格の安い道具を使う - 4.道具の扱いが簡単であること
特別な知識・技術がいらない - 5.さまざまな改変が可能であること
キャベツの切り方、具材やソースなどによりオリジナルの味をつくれる
家成これに建築を照らし合わせると、今の建築業界は、いかに住むこと、生きることへの関わりの度合いが低いかわかります。個人が素材にアクセスし、加工する機械を購入して製品をつくり、法規や工法を覚えて建築することは不可能に近い。これでは、用意されたものに住まわされている感覚が拭えない。だから、能動的に住む・生きることの実感をもう一度自分たちの手に取り戻していけたらいいなと思い、お好み焼きをお手本にしたいと思ったんです。
磯野まず、「お好み焼き」というキーワードがおもしろいですよね(笑)。でも、焼きそばは、お好み焼きになりますか?
家成なりますね、焼きそばもいけると思います。いや……、なるかな……?
磯野その「5箇条」にも当てはまるので、焼きそばは、お好み焼きだということでいいですか?
家成……いや、違いますね(笑)。でも、お好み焼き的になるか、焼きそば的になるか、見た目は違うけど、芯は一緒だと思います。
磯野では、家成さん、「焼きそば住宅論」でもいいってことですか(笑)?
家成あはは、ちょっと考えさせてくださいね。でも、お好み焼きのほうが絶対おもしろいっすね。まず、見た目がいいでしょ? なんと言っても、あの丸い形がいい! あと箸を使わず、コテで刻んでいく感じもいいですよね。
磯野では「これがなかったら、お好み焼きとは認めない!」と思うことはありますか?
家成うーん、粉ですかね。小麦粉と出汁を溶いたものがなかったら、野菜炒めになるから。
磯野なるほど。家成さんは「形が定まらないもの」「そこで何が起こるかわからないもの」を大事にされているのだと思うのですが、何が起こるかわからないものをつくるためには、それを浮き立たせる枠組みが必要ですよね。そこで、お好み焼きを成立させる要素を伺ってみたかったんです。焼きそばも基本の素材は小麦粉だし、似ているかなと思いましたが、「お好み焼き住宅論」では、単純に「つくりやすい」「安い」だけでなく、「自らの手が加えられる」点が重要そうですね。お好み焼きって、パーティー感があるのかな。仮に、肉じゃがを5人で囲んでみても……
家成全然おもしろくないですね(笑)! 大阪には、お好み焼きを焼く前の状態で提供する店もあるんですよ。客が自分で焼くので、お店の人は最後のフィニッシュを手放しているとも言える。そこもお好み焼きのいいところだなと思って。
磯野そうか、お店の人も手放すんですね! 家成さんの著書を拝読していても「手放すこと」を大切にされていることが伝わりました。何かきっかけでもあったんですか?
家成今思い出したんですけど、僕、小学校4年生のときに粘土でプロレスのバックドロップしているシーンをつくったんですよ。自分でも「よくできたな~」とまじまじ見ていたら、先生に「自分がつくったものを、よくできたと思ってまじまじと見るな!」と言われて。僕が自分の作品をまじまじと見ないこと、手放す感じを大切にしてるのは、それがルーツかもしれません。
磯野私も本を書きますが、書籍って何千部と刷られてバラまかれるじゃないですか。自分の分身がそこらじゅうにいる気持ちになって、気になって、まじまじと見ちゃうんですよね。
家成わかります、気になっちゃいますね。
磯野拙著が気になるから、エゴサ(ーチ)してしまって……、自分でも「ダサいぞ、磯野」と思うことがあるんですよね。私も誰かに「手放せ」と言われたほうがいいのかな(笑)。
バナナを勝手に植えてみると
磯野家成さんが書かれた『現代建築家コンセプト・シリーズ27 ドットアーキテクツ|山で木を切り舟にして海に乗る』(LIXIL出版、2020)に出てくる「仕組みや空間は上から降ってくるものではない。地べたから生えるものだ。私が暮らす地べたがあり、その地べたが連なり、私たちの日々の生活がある」というフレーズがすごく印象に残っているんです。この「地べた」って、どこからはじまるんですか?
家成僕、空間って、身体が出会うことによって立ち現れるものだと思うんですね。人や動物、ものの場合もありますが、何かと関係を持った瞬間に空間が現れ、仕組みが生まれ、協働とか反目とかいろんな状況が起きる。
磯野つまり、「地べた」とは、出会い、立ち現れてくるところ。それはどこにあるんですかね。家成さんがお住まいの路地裏の長屋に、「地べた」はありますか?
家成路地には、めっちゃありますね。大阪大空襲で燃え残った5軒長屋なんですが、路地がL字に曲がっていて、いろんな家に接続しているので、みんなで路地や水路、雨どいや菜園を掃除したり、手入れしたり。少し向こうの家を出入りする猫たちが、我が家の前の菜園でうんこをしたり、くつろいだりしている。軒をつらねる家々がすべて切断されずに、物理的にも精神的にもつながっているわけです。そういった感覚が「出会い」であり、「地べた」と捉えられる。
磯野たとえ直接的なコミュニケーションはなくても、何かを共有しているという感覚がすでに「出会い」であり、「地べた」であると。
家成隣家のタバコの煙が、我が家に入ってきて、僕の生活をちょっとだけ変えるような、そういうもんかなと。でも長屋の話は話しづらいっすね(笑)。あっという間に情報がまわる町なので。
磯野光ファイバーより早いですから、そういうコミュニティの話のまわる速度(笑)。
家成だからこそ、いい町やなって思うんですよ。そうやって情報共有してるんだって。
磯野それって、嫌じゃないですか?
家成全然。困ってる人がいればすぐ見つかるし。同時に、何が起きるかわからへんドキドキ感がおもしろくて、ほんとうに飽きないんですよね。マンションに住んでいた頃は、住民同士で何かを一緒に考えて協働することがなかった。それが嫌になって今の家に引越して、長屋の前の公園に勝手にバナナの木を植えてみたりして(笑)。子どもたちの「バナナ生えてる!」って声が聞こえてきて、バナナを介して町場の雰囲気が家のなかに流れ込んでくる。
磯野そういった家の内と外の境界が曖昧で、自由な感じ、子どもの頃はもう少しありましたよね。実家の庭で毎年花を咲かせる桜の木は、実は昔、父が山から勝手に採ってきたものなんです。今なら絶対ダメでしょ(笑)。
家成僕は小学生の頃、友人にラジコンを売って1万円を稼いで、大人にバレたらあかんからって、家の前にある溝の石垣の隙間にお金を隠して、みんなでちょっとずつおやつ代にしていた。最終的にはバレて怒られることになるんですけど、石垣も財布になるという話です(笑)。
磯野イノベーションとか言うよりも、そういうほうがよっぽど想像力が働きますよね。
顔が見える単位に戻していく
磯野家成さんとお話ししていると、ぶっちゃけ国家はいらないと思ってるんじゃないかと感じるんですけど、どうですか(笑)?
家成あはは。正直、国家が何かわかっていませんが、全員が全員、国を単位とする法律やルールを守らなあかんというのは謎ですね。うちの長屋だと、ゴミのネットを新調する際は、僕が買ってきて、みんなで割り勘するとか、いろんな場所に小さなルールがある。そういう小さなルールがせめぎ合って、だら〜っと地球を覆ってたらそれでいいんちゃうかと思うんですよ。ルールや規範も、「こうしよう」って自律的に変えながら立ち上げることができるんじゃないかと。理想論ではあるんですけど(笑)。
磯野国家がなくても成立するかもしれない。でも、国家などの仕組みは面倒臭いことも吸収してくれるじゃないですか。ご近所とのちょっとしたトラブルも、警察を呼べばラクに解決できるとか、人間の欲望を満たしている面もある。
家成たしかに、自分たちだけで話し合えないから第三者にゆだねることもありますよね。でも、それは「関係性」を手放している、とも言えるかもしれません。
磯野そうですね。伝統的民族は地縁・親族で結びつきをつくり、慣習と渾然一体となった宗教が集団のまとまりの基盤となっていました。現在は、そのようなつながりのあり方が断ち切られたからこそ、国家のような大きなシステムをつくれるわけです。でも、他方で巨大なシステムは暴力的な権力も持ちうる。
家成暴力的っていうのは、なにも戦争だけじゃなくて、「国民」という言葉を使うときだってそうかもしれない。そこに個人の顔が見えていないわけですから。かつての建築は、議事堂も博物館も、国の権威を示すためのものであり、使う個人の存在が反映されていない。そうじゃなくて、そこにいる人たちの関係性からものをつくれないかなと考えています。つくることにみんなで参加して、「この人は、電動ドリルを使うの苦手だな」とか個人に目を向けていく。「国民」と大雑把にくくると、「全員のこぎりを使いなさい」って話になるでしょ?
磯野「国家」のような大きな単位を、関係性から浮き立つ「地べた」のような小さな単位に戻していくというわけですね。これまで家成さんが経験した公共的なお仕事で、人の関係性からつくることができたと感じる事例はありますか?
家成2013年の瀬戸内国際芸術祭で小豆島・馬木地区につくった「Umaki camp」ですね。町長(当時)の家のお庭が制作現場だったので、短パン姿の町長が早朝覗きに来たり、役場の人も含めた島の人たちと一緒に、夜遅くまで食堂で与太話をしながら飲み交わしたりするなかで、彼らの生活者としての顔を垣間見る。そこには、日常から町の仕組みを考えていけるんだという実感がありましたね。
磯野芸術祭の予算や国の補助金が、関係性がうごめく場所としての暮らしに還元されていく。そのために顔が見える場が必要だったと。
家成はい。官僚主義的なポジションも反故になる場があったというか。芸術家もデザイナーも役場の人も、おっちゃん・おねえさんになる集まりがベースにあった。翌日の会議で多少嫌なことを言われても、「まぁ、昨日ベロベロやったおっちゃんやんか」って(笑)。
だから、つくる人は「明るい」
家成僕、巨大ビルがなぜ立っているのか不思議で。スカイツリーは心柱制振で揺れに強くポキッと折れることはない、と理屈で説明されても、そこに体感が伴わないじゃないですか。でね、最近あらためて、自分が身体的に「いける!」って感じがしないとつくれないなと思いまして。
磯野その「いける!」ってどんな感じなんでしょう?
家成たとえば、猛吹雪の山にいて、目の前にボロボロのほったて小屋があったとしたら、直感的に「崩れるから入ったらあかん」と思うでしょ?
磯野ああ、図工が「成績:2」だった私は、崩れるあばら屋に入って死んじゃうタイプですね(笑)。
家成「成績:5」だった僕は生き残る(笑)。ビルも国家も貨幣経済もそうですが、「危ない」みたいな体感の伴わないものが、あまりに大きくなり過ぎている。そういう体感できないほど大きなものをつくってしまうと、今度は、小さく解体する方法さえもわからなくなるんですよ。
磯野つまり、建築家の職業倫理として「崩れない」もの以外はつくってはいけないけれど、小さな単位に「解体できる」ことは重要だと。
家成そうです。家も解体すると薪になり、薪を燃やした灰を畑の肥料にして土に還すことができるように、今目の前にあるものの形は、循環のプロセスの一端でしかない。その循環を止めてはいけない。そういう考え方の延長で、先日、「農工民族宣言」っていうのをしたんです。ひとりで勝手に(笑)。要は、大阪の「工場」と滋賀の「農場」の2拠点にして、より素材の近くでものづくりしてくって話なんですけど。
磯野「農工民族宣言」だなんて、単なる田舎暮らしとはわけが違うんでしょうね(笑)。家成さんたちが土地を購入されたってことですか?
家成今、話を進めている最中ですが、この土地を所有することにも思うところがあって……。地租改正以前は土地と家がセットで、持ち主と使い手は一致していました。でも最近は、土地や建物も投機の対象になってしまった。僕ね、自分で使わへんものを持つな、と思うんですよ。その場所の使い方は、使う人が考えるべきであって、私有化しようとするからややこしくなる。
磯野「所有」というのは難しい問題で。そもそも線など引かれていないところに、人間が境界を引いて自分のものと相手のものを分けるところから所有がはじまります。境界をはっきりさせ、侵犯を防ぐことで、現代社会は争いを減らそうとするわけですが、どれだけ線を引いてみても境界付近には曖昧な部分が残ってしまい、それが争いの種となる。
家成ものも、空間も、知識や考え方も、みんなの共有物。だから最近、ビルのオーナーではなく、最大の共有物である「地球」に家賃を払って、みんなでおもしろく使っていける仕組みがあったら……と妄想してるんです。
磯野めちゃくちゃおもしろいじゃないですか!やっぱり何かを自分でつくっている人は明るいなって思います。ものが生まれる様子を見ている人は、立ち上がり、動き出す雰囲気を持っている。でも、おそらく1億2000万人中の1億人は、それをなかなか手に入れられずにいると思うんですよね。
家成仕組みを知っているから、明るいのかな。つくることができれば、変える方法も直す方法もわかりますからね。だからこそ、ものづくりをもっとローテクに考えてみてもいいんちゃうか、と思うんです。懐古主義のつもりはないですが、今ある技術を使ってできることを、日々料理をするようにやってみれば、つくることをもっとみんなが楽しめるのにな、と。
磯野なるほど。私、ラクをするためだけに技術を使い出すと、つくる力、創造する力が失われやすいと思うんです。技術は何かを立ち上げるために使うことで意味を持つ。家成さんのおっしゃることは、懐古主義ではないですよ。懐古に溺れることは、創造力とプロセスの否定です。でも、家成さんの言葉には創造される未来が埋まっているので。
家成俊勝|1974年兵庫県生まれ。建築家。2004年、赤代武志とdot architectsを共同設立。京都芸術大学教授。アート、オルタナティブメディア、建築、地域研究、NPOなどが集まるコーポ北加賀屋を拠点に活動。2021年、dot architectsとして第2回小嶋一浩賞を受賞。
磯野真穂|1976年長野県生まれ。人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、『なぜふつうに食べられないのか—拒食と過食の文化人類学』(春秋社)などがある。