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「地べた」はどこからはじまるの?

おっちゃんたちと
井戸を掘ってみた

上田假奈代|Kanayo Ueda

(詩人/NPO法人こえとことばとこころの部屋[ココルーム]代表)

水野大二郎|Daijiro Mizuno

(デザインリサーチャー)

大阪・釜ヶ崎のココルームは、喫茶店であり、宿泊所であり、学び舎であり、相談所でもある。背景の異なるいろいろな人たちにひらかれたこの場所で、2019年4月、井戸づくりがはじまった。発起人である上田假奈代さんは、なぜ大阪の、都市の真ん中で井戸を掘ったのだろう。デザインリサーチャー・水野大二郎さんとともに、自分たちの足元を掘ることで見えてきた景色に触れる。

釜ヶ崎の公共性

水野どうして井戸を掘ることになったんですか?

上田いくつかのきっかけが重なっているので、ひとつずつお話ししますね。まずは、ココルームのある釜ヶ崎について。釜ヶ崎は、1970年開催の大阪万博を契機に「寄せ場」としてつくられていった街なんですね。当時は、3〜4万もの人が日雇い労働者として暮らしていたそうです。1960年代には暴動も起こり、「女・子どもは住んではいけない」とさえ言われました。だけど高度経済成長期を支え、万博を成功させるために、男性の労働力は必要。国の政策として、家族持ちは街の外へ、さらに単身の男性を呼び込むということを進めていったわけです。
一方、1969年12月生まれの私は、まさに高度経済成長の恩恵を受けながら生きてきました。少しずつ暮らしは便利になるし、快適になっていく―その一方で「何か落とし物をしているんじゃないかな」という気持ちも芽生えてくる。でも便利さは手放せない。そんな、ざらざらした気持ちを抱えて育ってきました。
1990年代のバブル崩壊後は、日雇い労働の仕事は少なくなっていきます。また高齢化が進むことで、労働者だったおじさんたちは路上へと押し出されていきました。さらに歳をとり、2000年初頭には、生活保護を受ける方も増えてくる。新世界のフェスティバルゲートでココルームをはじめたのが2003年なので、まさにその過渡期に立ち会っちゃったわけです。当時は、釜ヶ崎のこともほぼほぼ何も知らなかったんだけどね。

水野ココルームの活動は、釜ヶ崎の誰もが関わりを持てる公共性の高いものというイメージでしたが。

釜ヶ崎の公共性

上田公共性を意識したのは、大阪市の事業をきっかけにココルームをはじめてからですね。「税金を預かっちゃったんだ」と思って。そこで、誰もがふらりと訪れることができる喫茶店のふりをしながら、現代芸術の振興に資する活動をはじめました。2011年の東日本大震災・原発事故を契機に大きく時代も変わっていく―これから誰の言葉が聞きたいだろうと考えたときに思い浮かんだのは、ここでたったひとりの人生を送ってきた釜ヶ崎のおじさんたちでした。おじさんたちと一緒に詩や俳句をつくったり、歌ったり、そうして釜ヶ崎芸術大学を立ち上げて。でも、おじさんたちの十八番(オハコ)は、やっぱり土木なんですよね。だから、井戸掘りを。
最後に、個人的な話なんだけど。30年来の友人・蓮岡修さんが、アフガニスタンで人道支援を行うNGOペシャワール会・中村哲さんと一緒に現地で井戸づくりに関わっていて、いろんな話を聞いたんです。あるとき、彼との雑談のなかで、持続可能性について話したことがありました。途上国に大きな資本が支援に入る際、幹線道路沿いに見栄えのいい立派な施設をつくることが多い。でも、一度壊れたら地元の人は直すことができない。そこで、ペシャワール会では、地元の人も一緒につくる過程に参加できる、アフガンの伝統的な工法で井戸掘りを行っている。どちらが持続可能なんだろうって。
私たち誰もが、消費者として生きてしまっている現代。でも、この当たり前に対して、挑戦したいなという気持ちが芽生えてきたんです。蛇口をひねるのではない「井戸」、「おじさんたちは日本の地面を掘ってきたなぁ」とか、ぐるぐる3年間考えめぐらせながら、「井戸を掘ってみたい!」と思い立ちました。

日常にある水脈と出会

上田いざ井戸を掘ろうと思っても、どこから手をつけていいかわからない。そもそも許可っているのかな?と、まずは市役所の相談窓口に電話しました。すると、環境局につないでくれて「手動で汲むのであれば、許可はいらないですよ」と教えてくれました。

水野自分の敷地内だったら掘ってもよさそうですが、「井戸は誰のもの?」「地面の下は誰のもの?」と疑問を持って、まず市役所に尋ねてみたのがおもしろいですね。

上田フェスティバルゲート時代に、舞台をつくろうと勝手に天井を抜いて、叱られたことがあって。それ以来、ちょっぴり慎重になりました(笑)。次に、保険会社の人に相談して、作業中の事故に備えた「井戸掘り保険」をつくってもらい、ようやく2019年春から釜ヶ崎芸術大学の講座として、蓮岡さん、土木作業が十八番の釜ヶ崎のおじさんたち、受講生との井戸づくりをはじめることに。最初は「3、4カ月で終わるかな?」と話していたけど、実際には半年間、700人ほどが関わる大事業になりましたね。

水野一大プロジェクトですね!

上田ただ、私たちも土木を行う団体ではないので(笑)、ちゃんと想いを伝えたいと思って、クラウドファンディングも実施しました。その際、NPO創設当初から応援してくださっている数名から「今回の活動は支援できない」という声が届いたんです。開発が行き届かない途上国なら理解できるが、なぜ大阪の都会で水を確保する必要があるのか理解し難いと。正直「あぁ、なかなか難しいんだな」と思うと同時に、活動の意義を伝えるべく、言葉を尽くしていかなきゃと思いましたね。

水野万が一のライフライン確保としての意味もありますよね。掘る過程では、どんな光景が見られましたか?

日常にある水脈と出会

上田ほんとうにいろんなことがありました。井戸なんて知らない子どもたちも参加してくれたんだけど、井戸を覗いて怖くて下りられず、何度も覗いては「はぁ……」って後ろに下がっていくのね。日が暮れて「もう、おにいちゃんが一緒に下りるから!」と誘ってもらうと、最後の最後に、その子は頑張って下りられて。地上へ上がってくるときには、スコップを持ち上げてドヤ顔ですよ(笑)。次の回には友だちを連れてきて「ほら!」って得意げに。そのとき、彼らは釜ヶ崎のおじさんを「先生!」って呼んでくれたんですね。おじさんたちは、ちょっとはにかみながらも、とっても嬉しそうでした。

水野都市のインフラをつくってきたおじさんたちの専門的な技術を介して、コミュニケーションが生まれたんですね。土木は、一般の人には理解が難しい専門的な技術だけど、井戸掘りというひとつの課題にみんなで向き合うことで、関わる人たちの役割がもう一度編み直され、対話の状況がつくられていく。そこでは、日雇い労働者ではなく、“まちの人”として出会い直すような感覚がありますね。

上田そうなんです。また、あまり体力がない、肉体的には働けない人にも大切な役割がありました。「ワァーワァー! キャーキャー!」と彼らの声が上がるだけで、みんな気持ちが高まって、頑張れるんですね。働き合うって、作業を分担するだけでなく、関心を寄せる、声を出す、おもしろがることも大切なんです。実際ね、井戸掘りってお互いに声をかけながら作業しないとほんとうに危ないんですよ。

水野必ずしも直接的な関わりではないかもしれないけれど、盛り上げる存在は大事ですね。うちの息子も餅つきのときに「お父さん、頑張れ〜!」って言ってただけなのに、自分も参加した気になっていました(笑)。応援や声がけ、にぎやかしも参加のあり方として大切ですね。

上田あと、これまでおじさんたちの話を聞き取る機会はあったのですが、仕事のことは教えてくれなかった。それは私たちが土木現場の細かい作業については理解できないからということもあったんだと思います。でも井戸を掘るという時間をともに過ごすなかで、雨で作業ができない日に「これまでしてきた仕事の話をしてくださいよ」とお願いしたら、事細かに専門用語を交えつつ、はじめて仕事の様子を話してくれたんです。なかには、野宿をしたときの厳しい状況の話もあって。そこから、段ボールハウスをつくって、どうやって暮らしていたかなどを共有する「釜ヶ崎の生きる知恵と技シリーズ」という講座も生まれました。井戸掘りを通して、おじさんたちの人生に、みんなが「おぉー!」と関心を寄せたことで、おじさんたちの内にあった知恵や技を共有してくれた。いろんなおもしろさがありましたね。

水野井戸掘りの写真を拝見していると、假奈代さん、とっても楽しそうで、ハツラツとした表情でしたね。

上田あはは。私自身も井戸を掘って、めっちゃたくましくなったんですよ(笑)。
大小トラブルが起こるなか、周囲の人たちやおじさんたちの経験と勘によって助けられました。紙一重の経験をしながら、ほんとうにたくましくなりましたよ〜! 掘りはじめてすぐヘドロみたいな臭い水が出てきたときはお先真っ暗な気分でした(笑)。知り合いになった地層研究者の後押しがなかったら断念していたかも。でもそのまま掘り進めたら、3メートルあたりから透明な美しい水がジャンジャン出てきて。

生きる力を引き継ぐ

上田井戸掘りに参加してくれたおじさんたちの多くは、すでにリタイアしていてヨボヨボなんですよ。でも、押し入れからヘルメットを出してきて、いざスコップを持ったら、ちゃんと腰が入るんですね。さすがに「危ないことはしなくていいよ」と止めた人もいるんだけど(笑)。2025年までに、この人たちの多くがさらにヨボヨボになり、亡くなる。この危機的な状況を前にして、知恵と技を引き継ぐアーカイブが必要だと感じます。

水野これから高齢化が進行すると、高度経済成長期に頑張った釜ヶ崎のおじさんたちの能力が失われていく。すると、この街自体の“公共を再生する能力”も失われていくわけです。それは、日本の大きな課題でもありますよね。レガシーとしてつくられたもの―高速道路などのインフラや公共施設を、再び修復して使い直す機会とその能力がどんどん失われていっているわけですから。それは、もう少し小さなまちのスケールにおいても同じ。そんななかで、釜ヶ崎から、あるいは井戸掘りから我々が得られる大切なことってなんでしょうね。

上田釜ヶ崎のおじさんたちのような、手仕事を実践してきた世代から学び、手繰り寄せられる、“生きる力”だと思うんですよね。私たちの世代は、蛇口をひねれば水が出る、スイッチひとつで明るくなる、クリックしたら商品が届く、なんでも当たり前になっちゃった。いま70歳以上の人たちは、牛を飼って暮らすとか、着物を自分でつくったとか、いろんな手仕事で生活を営んできた世代です。その人たちの話を聞き取っていくこと、一緒に手を動かしてみることから考えたい。

水野そうか! 消費社会に飼い慣らされてない世代が70代あたりまでだとしたら「持続可能社会をつくったよ」とバトンを託して、「持続可能な社会つくろう」「ペシャワール会に学ぼう」と呼びかけても、次世代の40〜50代は、THE大量消費社会の申し子。「買えば済むから、わかんないです〜」という人たちなわけですよね。だから、まずは70代の人たちが元気なうちにちゃんと記録をとって、「つくれる力」を身につけるべく、動く必要があるということですね。

上田そう。それを受け取る私たちは、その後にどんな社会を、どんな働き・関わりをつくっていくのかが問われるなと思います。話が逸れるかもしれませんが、井戸を掘っていた2019年頃、「移動」についても考えていたんです。釜ヶ崎にいる人の多くは故郷を出て移動してきた。そして生きる方法として、土木工事に従事してきたわけです。工事が済むと、完成を楽しむことなく次の現場へ向かう。そしてどこかから移動してきた人が完成したものを楽しむ。私たちはいろんな移動を交錯させながら、生きているんだなと。移動の交錯を、もう少し違う形で紡ぎ直せないのかなって思うんです。

水野水野 そもそも日雇い労働者は移動性が高くて、一時的に定住しても現場を行き来するわけですよね。また、もう少し俯瞰すると、近年は仕事のためにいろんな国から移動し、日本に集住する人たちがいらっしゃる。釜ヶ崎でも多国籍化・多様化が進んでいるんですかね?

上田安宿なので、海外から多くの人が集住しているし、土木の仕事をしている人たちもいらっしゃいます。さらに、コロナ禍においては、パスポートやビザが切れて困窮し、野宿状態になっている人も。中東から逃れてきた人がココルームに来ていたこともありました。その人に「今、井戸を掘っているんです」と話したら「掘りたい!」って参加して、なかなか底から上がってこない。そして、ほんとうにたくさんの土を運び出し、興奮気味に「人は自分のことを難民って呼ぶけど、違うんだ。自分は人間だ!」って声を上げたんですよ。それは井戸掘りという身体的な作業を通して、この場に貢献し、人間らしく働いたという感覚とともに出てきた言葉だなと印象深く覚えてます。そうやって「働き合う」ことで、国籍や人種を超えて通じるものがあるんやなと思いましたね。

水野井戸を掘ったという70代のおじさんたちから、その知恵や技の世代継承があるとすれば、もしかしたら、中東も含めた多国籍の人に受け継がれていって、また新しい使い方を発見できるのかもしれないなとお話を聞いて思いました。裏返すと、ひとつの文化でものづくりをすることは、もはやできない。高齢化もあるし、そもそも、70代以下の人たちは、生活のなかで何かをつくり出す能力をどんどん失いつつある。すでに釜ヶ崎で起きている、多国籍で多様な人がなんとか必死に暮らしているということや、わかりやすい身体性の関わりのなかから、2025年以降の、未来の遺産も引き継いでいけるとおもしろくなりそうだなと思うんです。

上田ほんとうにそう。多様な関わり合い、働き合いが釜ヶ崎にはあるし、それらが編んでいくものってあると思うから。一般的には「ステークホルダーをたくさんつくって」とか言うけれど、そう難しい言葉じゃなくて。一緒におもしろがったり、声をかけ合っていくようなことからやっていく。移動するということは、いろんな出会いを運ぶものだから。

使い直すための時間と空間

水野宇宙船が降り立った後―たとえば万博のような大きな祭りの後で、地元の人には何が残されるんだろう、と考えることがあって。負の遺産とならないように、廃材や端材も利活用できるといいけど、安直に考えると、バザーや蚤の市みたいに「これ持って帰ってくださいね〜」で終わってしまう。もう少し長期的に捉えて、機会を待って、うまく使いまわすことはできないかなと。そのヒントは、農作業に必要なものをなんでもつくる、お百姓さんにあるんじゃないかと思うんですよね。お百姓さんの古いお家を調査した友人の石川初さんから聞いたんですけど、彼らは、テープや木材、ロープなどを、細長いもの、平たいものと「ゆるく分類」し、いつか何かに使える材料として保管しているそうなんです。

上田たぶん「これがいつか使えるんだ」「ブリコラージュ(ありあわせでつくること)できるんだ」という気持ちがなかったら、保管場所を確保する気力も起きないし、ゴミにしか見えなくなっちゃいますもんね。井戸掘りのときも、あちこちから、いろんな道具が出てくるんですよ。私なんかは、何をどう使えばいいかわからないから、わかってる人が「あそこから借りてこれるよ」「これいるでしょ?」って動いてくれる。そうやって、専門知識のある人が、素人とつながりながらも、もう少し関わりの余白を残しつつ、道具や素材を使いこなす技術や知恵をシェアしてくれるようにならないかなと思っています。

水野なるほど。ノウハウやスキルをうまく共有していこうという知のコモンズ、使い方さえわかれば「ゴミじゃないよ、これ!」と材料としてよみがえるコモンズもある。もちろん、それを使いこなすための道具や設備を共有する、FabLabのような半分コモンズ化している場もある。それらをあらかじめうまく整備しておかなければ、なんとなく大企業がやってきて、効率よく撤収するけど、気づいたら全部ゴミでした、みたいになってしまう。

上田そう。万博のパビリオンも、新しくつくるだけでなくて、今あるものから寄せ集めてつくってみるところがあってもいい。だって、伊勢神宮を何十年に一度つくり直すのは、その技術を忘れないためでしょう。

水野そうですね。ちなみに假奈代さんたちがつくった井戸も、定期的に修復する計画はあるんですか?

上田それが、めっちゃ頑丈なんですよ。釜ヶ崎の意地で、「これは1000年保つぞ!」って(笑)。

水野あはは。でも大きなイベントが去った後も、人々がいきいきと楽しく暮らせるような計画を進められるといいですね。「いのち輝く」って言ってますし。

上田ね。そもそも、命って、輝いているもんだからね。曇らせちゃいけないだけ。

上田假奈代|1969年奈良県吉野生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読をはじめる。2003年、大阪・新世界フェスティバルゲートで、ココルームを立ち上げる。2008年から西成区通称・釜ヶ崎で「インフォショップ・カフェ ココルーム」をひらき、喫茶店のふりをし、2016年春、地域の人たちと旅人とのであいをつむぎたいと考え、同商店街で三十数ベッドの「ゲストハウスとカフェと庭 釜ヶ崎芸術大学」をひらく。

水野大二郎|1979年東京都生まれ。2008年、Royal College of Art ファッションデザイン博士課程後期修了、芸術博士(ファッションデザイン)。2012年、慶應義塾大学環境情報学部に着任、2019年から京都工芸繊維大学KYOTO design lab特任教授。2020年から慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特別招聘教授(兼任)。蘆田裕史とのファッション批評誌『vanitas』共同編集をはじめ、共著に『インクルーシブデザイン』『サーキュラーデザイン』(いずれも学芸出版社)など。